第五回 「アメコミ風の柄が一面に描かれた派手なパンツ」:後編

 

 

誕生日パーティは、まだ始まったばかりだ。

ふと瑠奈に目をやると、何かを急かすようにしてそわそわと体を動かしている。
「あ、そうか、プレゼントだ。ごめん、遅くなっちゃって」
私は鞄から小さな包みと一冊の文庫本を取り出した。
紀伊国屋書店で買った1万円分の図書カードと、星新一の『ボッコちゃん』だった。さすがに図書カードだけでは味気ないと思った私は、昭和33年に発表された表題作を含む、その短編集を添えた。

私自身も裕福な家庭に生まれたわけではない。共働きの両親の帰宅が8時を超えることも頻繁にあった。その間、私はひたすら読書に没頭した。そんな時期に繰り返し読み、薄暗い公団アパートの片隅から非現実の世界へといざなってくれたのが、『ボッコちゃん』だっだ。瑠奈がまた1人で夜を過ごさなければならない日、かつての私のように、ほんの一時でも本の中に逃避すればいい。そんな気持ちを込めたのだった。

はい、と手渡したその数秒後、瑠奈の瞳から大粒の涙がこぼれた。
「こんなのいらない」
え? どうしたの? そう問う間もなく、瑠奈は体を震わせ、涙を流し続けた。
小学4年生の女児にとって、そのプレゼントはあまりにも質素だったようだ。おそらくは派手な色の紙でラッピングされ、綺麗なリボンで飾られた、洋服や玩具等を想像していたのだろう。

私はやはり何かがずれているのかもしれない。

「今日だって、ホントは牛角に行きたかったのに!」

瑠奈はここぞとばかりに、鬱憤を爆発させる。
しびれを切らした夏美が言った。
「図書券、1万円分もあるじゃないの。これで好きなマンガたくさん買えるじゃない。何文句言ってるの。ほら、おじちゃんに“ありがとう”は?」

嗚咽を漏らした少女が半ば強制的に言わされる「ありがとう」の響きは、ビリー・ホリデイの『奇妙な果実』ばりに切ない。

私は一言「ごめんね」と言った。

きっと図書カードは有効に使われるのだろう。ただ、『ボッコちゃん』は、永遠に開かれることがないように思えた。

いつのまにか日付が変わろうとしていた。奥の4畳半の部屋では、瑠奈がすやすやと眠っている。私と夏美は、そのままテーブルで酒を飲み続けていた。

 

「そういえばさ、あれ、考えてくれた?」
タイミングを計ったように、夏美が切り出した。
1ヶ月ほど前から、私は夏美から方南町での完全な同居を勧められてていた。それは結婚の助走に入ることでもある。
私は「…ああ」と、急に思い出したような振りをして言った。
「俺と夏美だけの問題じゃないからなあ」
「え、瑠奈もけっこうなついてるじゃん」夏美が言う。
「なついてる…のかな」
「なついてるよ。何か最近生意気になったけどさ、女の子なんてどこもあんなもんだよ」
確かに、この数ヶ月間、私と瑠奈はそれなりに上手くやってきたほうだと思う。今日泣いたり拗ねたりしていたのだって、可愛げの一言で済む話だ。だが、あと3年、いや1年もたてば、どうだろうか。彼女に自我が芽生えた時、この「血のつながらないおっさん」をどう思うのだろう。とてつもない嫌悪感や敵意を抱くことも、想像に難くない。

それでも私は瑠奈を愛せるだろうか。

「だいたい考え過ぎなんだよ。いっつもさあ…」
夏美が珍しく怒り口調で言ったが、私はそれを遮るようにして、トイレに立った。便器を前にした瞬間、ゴボゴボゴボと、断水明けの蛇口のような音を立てて反吐が溢れ出た。
扉の向こうで「大丈夫─?」という夏美の声が聞こえる。私は何も答えず、隣りの洗面室で顔を洗った。
ふと足下を見ると、脱衣カゴの中に、数時間前まで履かれていた瑠奈のパンツが無造作に置かれていた。アメコミ風の柄が一面に描かれた派手なデザインだった。私はそっとそれを手に取り、ゆっくりとクロッチを広げた。どうせうんこでもびっちり付いてるんだろう。私が10歳の頃だって、そんなものだった。
私の予想は、見事に裏切られた。そこに付着していたのは、ごく少量の小便と、1本の細い陰毛だったのだ。
「俺が考えるほど、瑠奈も子供じゃないんだな」
そう思いながらしげしげとパンツを眺めていると、またしても予想外の出来事が起きた。私の下半身がやおらに反応したのだ。

不覚。私は小学4年生のパンツに欲情し、勃起したのだ。

ぐるぐると渦巻いていた疑問に、明確な回答が出た。数年間溜めた精液が一気に放出されたかのように、すっきりと。
やはり私はこの家には居るべきではない。私は瑠奈を幸せになど出来ないのだ。

002

 

 

「俺、帰るわ」私は夏美にそう告げた。

「え、もう12時過ぎてるよ。泊まってけばいいじゃん」
彼女は驚いた顔をして言ったが、
「いや、いいんだ。帰る」と私が言うと、それ以上引き止めることはなかった。
どこか不安気な顔をしながら、夏美は玄関先まで送りに来た。
「今日はありがとね。瑠奈も本当は嬉しかったんだと思うよ」
そんなおためごかしを口にした後、いつものように「明日また来る?」と聞いてきた。

私は何も答えず、アパートを後にした。

小雨が降る中、ぶらぶらと家路を辿る。その途中、自転車に乗った警察官に呼び止められた。
「あれー、大丈夫? 随分酔ってるねえ。どっから歩いて来たの」
人が好さそうな中年の警官だった。私は素直に「女ん家。方南町の」と答えた。
「あー、彼女の家かあ。いいねえ」警官は呑気な口調で言った。
「正確には元彼女だね。さっき別れたばっかでさ」
私がそう言うと、彼は困惑の表情を浮かべた。そんなこと俺に言われても困るよ、といった心境だろう。
「まあ、色々あるよ、人生は」取って付けたように警官は言う。
「そう、色々あんね。小学生のパンツ一枚で人生が変わることだってあんだから」
呂律の回らない口調で私が返すと、警官の表情が変わった。「小学生のパンツ」という単語に瞬時に反応したのだろう。
「ちょっと鞄の中、見せてもらっていいかな?」

温厚そうに見えた瞳は、鋭い仕事モードになっていた。

 

 

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住吉トラ象
元エロ本編集者。現在は派遣労働者。60~70年代のソウルミュージック、イイ女のパンツが好きです。座右の銘は「ニセモノでも質の高いものは、くだらない本物よりずっといい」(江戸アケミ)

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