第十回 「忌み地」としての沼の考察(小休止)

 

■四谷からリハビリ

2018年の夏の暑さは老いた身に堪えた。復調してしばらくぶりに新宿の住まいに戻ることができたので、リハビリがてら「沼」と「忌み地」を紐付けながら、旧・鮫河橋~旧・市ヶ谷刑務所を歩いてみたい。


▲夏が過ぎて沼散歩に最適の季節がやってきているというのに…。足はまだ思うように動かず、気が付くと身に覚えのない場所でぼんやりしている。

東京四谷の谷底湿地帯でかつての貧民窟である「鮫河橋谷町」や「元鮫河橋南町」といった町名は、東京都制が施行された1943年(昭和18年)に廃止され「若葉町」と制定された。

「若葉」「白山」「ニュータウン」と呼び方だけを白々しく変えた地名からは、かつての貧民窟、部落、または処刑場跡地や沼地を新しく造成した土地ということが容易に想像される。

まず、処刑場跡地や水難事故が多発する沼が「忌み地」として蓋をされて「公園」などに姿を変える。瑕疵が生じるため「公園」としてしか使えないのであろう。

さらに、忌み地を隠蔽する役目を担っているのが、鬼門の方角に建てられる「学校」等の公共施設である。


▲パソコンに詳しい知り合いに送ってもらった散策ルートのGoogle map画像。「安鎮坂通り」から「余丁町児童遊園」までの徒歩ルートだが、途中で「四谷於岩稲荷田宮神社」に寄り道をした。Google map での最短ルートはこちら

表面だけを取り繕ったとして風が通らずじめじめとした湿度や陰気、重ったるい雰囲気は払いきれない。

■沼を巡って見聞きしたこと

ある公園で子供を遊ばせる際は気をつけなければいけないだろう、特に子供の脛や首筋に原因不明の痣や傷ができたときには土地の因縁に目串を立てたい。

それらは迷信の類と思われるかもしれず口はばったいが、すべて私が見聞きしたことである。

沼を探して道を尋ねて聞くことができた話や、土地の人間からバラバラに聞いた話がやがて1本の筋道となり、私に沼と忌み地との関連に生々しい具体性を与えた。

忌み地と知らずに造成をはじめるや災いが起こり、ある数の犠牲者を出すまで凶事が鎮まらない、ばかりか繰り返される。奇妙なことには求められる生贄の数は、過去にそこで亡くなった数の近似値らしい。

異変が認知されても手遅れで記録には起きたことの表面しか残らない。そのため、口頭伝承だけが信じるに足る情報源となるのだが、いまやそれを語る老人も減りつつある。

すると、原因がすっぽり抜け落ちたまま磁場の因縁が蓄積されて猛威をふるう。穏やかではない事件や事故、不審死が繰り返し起きることにより忌み地と呼ばれて遠ざけられる所以である。


▲「法隆寺玉虫厨子」。内壁・扉を押出仏で飾っているさまは、専仏を節った様子を想いおこさせる。

■Bさんの忌み話

造成されたばかりのニュータウンに住んだBさんから聞いたところによると、ニュータウン一帯がかつての処刑場だったことを家を買った後で知ったのだという。

墓地が離れていて処刑場の痕跡もなく気がつかなかったそうだが、処刑場跡地の一部が公園になっており、例に漏れず鬼門の方角には学校が建てられていた。さらに遡ると窪地に沼があり「穢れている」として立ち入ることができなかったことを土地の老人から聞いたという。

そしてというかやはりというべきか、しばらくするとニュータウンの居住者に事故死や病死が相次いで続いた。越してきたのは働き盛りの若い世代が中心なので、こうも葬式が続くとニュータウン全体におかしな空気が流れはじめた。

封じられていた忌むべき蓋が開いたのか亡くなったのは2年の間に11名。

ついに地元民の間で処刑場との関連が噂になり、祈祷をしても鎮まらなかったのだという。

Bさんはそこから先は口をつぐんだ。私の知る限りではBさんはその土地の過去に首を突っ込んだばかりに、ある種の不幸に見舞われて精神状態が捩れてしまった。

口角にあぶくを立ててひと通り話を終えた後、Bさんは帽子をかぶると蹂躙された女の子のように生気のない顔を引き攣らせて、「ひっ」「ひっ」と笑いながら雑踏にふらふら消えていった。


▲追い詰められているはずなのに精いっぱいの作り笑いをしていた。もしBさんが江戸っ子だったなら、やせ我慢の美徳とされるのであろうが…。駅からどっと流れてきたOLやサラリーマンは彼を避けるように急ぎ足でどこかに向かっていく。

■安鎮坂通りから谷底を這いで

ビートたけしがバイクで転んだ安鎮坂通りを進み東京都神社庁を過ぎて、私はいま南元町の交差点を左に曲がった。

「鮫ヶ橋せきとめ稲荷」に隣接する「みなもと町公園」のちびっこ広場で遊ぶでもなく突っ立つ、鼻のあたりが不自然な親子に不信感を抱きながら、「鮫ヶ橋通ガード」をくぐり窪地の底の若葉町に出た。

この辺りが江戸時代の岡場所で明治時代は東京市下最大の貧民窟として知られた旧・鮫河橋谷町である。


▲安鎮坂通りと鮫ヶ橋通ガード周辺。1994年(平成6年)8月、安鎮坂通りでバイクによる自損事故を起こし重傷を負ったビートたけしは、事故の際に脳の一部が破損して見えた「花火」を元にした映像「HANA-BI」で金獅子賞を受賞した。ちなみに映画のキャッチコピーは「その時に抱きとめてくれるひとがいますか」。事故のその時に彼を抱きとめたものは「せきとめ神」に思えてならない。


▲「せきとめ神」の鮫ヶ橋せきとめ稲荷。「咳き止め」「堰き止め」が名前の由来とも。凶事を急いで止めなければならなかったとすると「急き止め」の意味にもとれるが…。


▲鮫ヶ橋通ガード下。元禄15年(1702年)5月27日の吉原訴訟書上に鮫ヶ橋の名が出ており、当時から非公認の岡場所(売春宿)があったことを窺い知ることができる。この岡場所は最下級の私娼が流れ着く吹き溜まりで、その多くは梅毒のため鼻がもげ「花散里は吉田町鮫河橋」と詠まれている。元鮫河橋仲町の二ノ橋より表町へ出る道は貧乏横丁と称された。


▲東京湾の入江が深かった頃、この付近でも鮫が遡上するのを見られたことや、目が青白い魚目馬(さめうま)が死んだことなど諸説あるが地名の由来は分かっていない。


▲鮫ヶ橋通ガード下を過ぎて50mほどの近さにある、東京で最初の私立幼稚園「二葉南元保育園」。1900年(明治33年)の開園当時は「二葉貧民幼稚園」といい幼児の教育によって貧民救済をしようとした。調べてみるとこのあたりは海抜19mほどということで、低湿地という割に特別に海抜が低いというわけではないようである。


▲小祠。(東京都新宿区若葉2丁目6-5 Google map はこちら。)

蛇のように長く続く坂と電信柱のしつこい広告に辟易しながら、「お岩さん」で知られる「四谷於岩稲荷田宮神社」に寄り道をし、四谷三丁目から「曙橋駅」を抜けて400mほど歩いた左手にある「余丁町児童遊園」に辿り着いた。

寄り道や休憩を取りながらここまで1時間はかかったであろうか。目に見える沼はなかったがその存在の気配が漂う、リハビリにはもってこいの道筋であった。


▲四谷於岩稲荷田宮神社。目の前に現れた女性が携帯を見ながらぶつぶつつぶやき通り過ぎていく、動機が激しくなって足がもつれたため休憩を取ることにした。


▲余丁町児童遊園前。園児たちを連れた引率の先生に「ここから離れなさい」と告げると、訝しがるような顔が急に優しい表情になり公園の奥に誘導された。

■余丁町児童遊園でリハビリ

この児童遊園の辺にはかつて「市ヶ谷刑務所」があり、1915年(大正4年)に廃止となるまで処刑された人数は約290人にもなるという。

現在、大規模な道路工事のため土地の整理・造成が始まっているが、児童遊園には触れぬよう工事計画が進められているらしい。


▲若松河田駅近く「大久保の犬御用屋敷跡」から「富久町西交差点」をつなぐ大規模な道路造成工事。その計画から不自然に避けられている余丁町児童遊園。(*編集部註:2018/10/01のマップ画像)



▲(青いタイルの家の真横)「刑死者慰霊塔」。この碑は日弁連が建てたものである。大逆事件の首謀者とされた幸徳秋水らの霊も鎮めているらしい。公園の向かいには腸を病みがちだった永井荷風の「断腸亭」があった。

触れてはいけない地が造成を阻むということは、「平将門の首塚」や「羽田の赤鳥居」を例にするまでもないが、いずれにしても凶事が起こらないことを祈るばかりである。

■私が行く

沼と忌み地の関係性は2匹の蛇が相手の頭を砕こうと絡み合い交尾する姿になぞらえられるかもしれない。


▲「注連縄」(しめなわ)は蛇の交尾を模したものであるとする説がある。


▲「ヘミペニス」(半陰茎)と呼ばれる蛇の陰茎。

処刑地に染み込んだ血肉と怨恨、梅毒で溶け落ちた鼻、縄文人の脳が綯い交ぜになった汁が沼に溜まりぶくぶく発酵し、立ち昇ったガス靄に近寄るものの夢を投影させて誘い込んでいる。

次の生贄にされて蹂躙されるのは貴方かもしれない。だから、「忌み沼」に近付いてはいけない、私が行く。


▲梅毒第3期の症例写真。第4期になり梅毒に脳が侵されると、性格が急に変わって誇大妄想となったり、言葉がもつれる。さらに進行すると、知能が低下して痴呆症になり想像できない苦しみの後に死に至る。


▲市谷加賀町二丁目遺跡から発見された約4,000年前の人骨。

 

<参考サイト>
白鳳時代の彫刻

鮫河橋

東京貧民窟をゆく~四谷鮫河橋02

岡場所

市ヶ谷刑務所

後烏帽子岳遭難事故について

まっつん@BRM1005中部 1000km(twitter)

画像や写真でみる性病

市谷加賀町二丁目遺跡から 縄文時代の人骨を発見

沼田小三
沼田小三(ぬまたしょうぞう)。古希に近づく昭和生まれ。日本各地の沼を巡る沼研究の第一人者。新宿区在住。

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