第五回 「大宮『みぬまの沼』」

 

1.大宮の見沼

私が沼を歩き続けて数十年からになる、沼への興味は尽きることがなく、気が付いてみると終生の仕事になっていた。

沼に興味を持ったのは、それが私の幼少期の記憶に繋がるからだ。

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▲武蔵野の原風景。

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▲かつての見沼(消滅)。小さくて赤い鳥居のマークが神社を示している。上から、氷川神社、中山神社(元・中氷川神社)、氷川女体神社。それぞれ、見沼に沿って建てられていたことが見て取れる。

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▲現在(2013年)の大宮周辺地図。見沼の痕跡は見当たらない。

 

記憶を辿ると、時折訪れた都内近郊の叔母の家の周りに、武蔵野の雰囲気が色濃く残っており、草木が生えた沼をタンタン舟が左から右へとスローモーションのように通りすぎていくおぼろげな風景が浮かぶ。

そんな風景に郷愁と沼の存在を感じて、大宮へと向かうことにした。

 

2.氷川神社の神池

大宮駅に着いてまず向かった先は「氷川神社」。東京都・埼玉県近辺に約200社ある氷川神社の総本社である。

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▲大宮駅前。氷川神社への道を聞こうと、うなだれた男性に声をかけた。ぶつぶつとつぶやく声に耳を近づけると饐えた精液のような匂いがする口から、ご神託を繰り返していた。

 

縄文時代以前から江戸時代の中期までこの一帯に存在した広大な沼「見沼」。氷川神社は見沼の水神を祀ったことから始まったとする説があり、その名残であるという神社内の「神池」に足を運ぶ。

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▲大きな鳥居を何度もくぐり参道を歩く。赤ん坊や発育途上のランニング少女、能面の男性、死後に近づく老人が車イスに乗ってのろのろと動いている、手に白いものをぎゅっと握りしめ、私に向けた濁った目は何事かを訴えかけているようであった。

 

「見沼」時代から流れ続けるであろう水源が作った池地に囲まれるように建つ「宗像神社」(むなかたじんじゃ)。

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▲池に囲まれた円形地の中央に建つ宗像神社。透明感のある水には鯉と亀が住んでいる。ずっと亀を見つめている30代とおぼしき女がいた。

 

粘着度のない透明感のある水質をたたえた様は、いかにも「神池」といった風情の佇まい。「沼」と呼ぶには、あまりにも清々しく物足りないものであった。

ここでは見沼のかすかな痕跡すら感じることはできなかった。

 

3.ひそひそ囁いている

氷川神社の摂社(小規模な神社)に「門客人神社」があり、元々は「荒脛巾(アラハバキ)神社」と呼ばれていたもので、先住の神を客人神と装っている点がキイとなっている。

秋葉原からつくばエクスプレスで繋がる筑波山と富士山を結んだ線と、浅間山と冬至の日の出を結んだ線の交差地点に位置するのが氷川神社である。

意図的に作られた地を結ぶラインは、縄文から紡がれてきたある物語の存在をひそひそ囁いているようではないか。

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2013年7月から行方不明だった制服の女子高生が神社から発見されたというニュースがあったが、そういうことである。

(「7月から行方不明の高3女生徒を保護 神社で発見 千葉・茂原」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130926-00000551-san-soci

 

4.女体社の「御船祭」

「男体社」の氷川神社に対し、「女体社」にあたる「氷川女体神社」。
じつは「女体社」こそ、かつての見沼の雰囲気を今に残す地である。

氷川女体神社で最も重要な祭祀、見沼に住む竜神を鎮めるために行われていたという「御船祭」。

享保12年(1727年)に見沼が干拓されるや、見沼での御船祭が行えなくなった。そこで、見沼の一部であった場所に、池の中に丸い島を築いた祭祀場を設け、そこで御船祭の代わりとなる「磐船祭」を行うこととなった。(竜神の巣と考えられていた四本竹で祭を行ったとされる報告もある)

「磐船祭」が行われていた、「磐船祭祭祀遺跡」が残されている。神隠しにでも遭いそうないささか異様な円形地である。

(参考動画/YouTubeより「磐船祭祭祀遺跡」

 

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▲円の中心を囲むようにぐるぐると回り踊る「盆踊り」。明治以前は、「歌垣」などの風習と結びついていた。よく似た儀式が「磐船祭祭祀遺跡」でも行われていたのではなかろうか。

 

土地の神を失い形骸化した祭祀では、生娘の代わりに動物が生贄として捧げられ、原初の意味合いは白けたものとなっていったことであろう。

虚しくも江戸時代の終わりとともに磐船祭は行われなくなり、祭祀場がぽつねんと残った。

地主神=竜神は明治に入って行われた干拓によって、事実上殺されてしまったようなものである。こうした神殺しは時代の変わり目に頻繁に行われるが、その犯行は私たちを欺くように巧妙に行われるのが常であった。竜神にとってかわった新しい神(犯人)についてはまた別の機会に書くことにしたい。

*見沼に住めなくなった竜神は生き延びていて、美女に姿を変えて印旛沼に引っ越したとの言い伝えがある。ひとまずは、ほっと胸を撫でおろしたものである。

 

 

5.みぬまの沼

氷川神社からほど近くにある大宮第三公園内に「大きな水たまり」のあることを地図で確認した。

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▲氷川神社から徒歩約15分。大宮第三公園で「みぬまの沼」という沼の存在を指し示す看板。 「光の門」とはいったい誰が考えたネーミングであろうか。

 

「みぬまの沼」説明によると、「見沼地域の特徴である湿地帯をイメージしてつくられました」との由。おそらく、湿地帯をよく残していたこの地を利用して当時の姿を再現したのであろう。

綺麗に整備された公園、だがそれは、周辺に漂う湿地帯特有の不気味さを覆い隠すための建て前だということがゆっくりと見えてくる。古くからの湿地帯は、地の記憶とでもいうような因縁を引き摺っていくものなのであろう。

例えばかつてスラムだった地に、とってつけたような新しいネーミングを与えて良しとするのは、隠蔽を際立たせる杜撰な手である。

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▲手相の勉強でもしているのか手を絡ませあうアベックの姿が公園のあちこちに目について鬱陶しい。ボールを追いかけてはしゃぐ子供たちの笑顔や関節の動きもどこかぎこちなく思われた。

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▲一方では中年アベックが、薄暗い茂みの中へと入っていく。どうにもただならぬ気配が漂う一帯である。「みぬまの沼」への期待が高まる。

 

お盆に近い時期とあって、180cmほどに育った草がびっしりと茂み湿地を覆い隠しているため、平地から水面を確認することは困難であった。

埼玉朝鮮初中級学校中学校の近くにあるバードウォッチに使われる木屋の上に三脚を延ばし撮影を行い、ようやく沼の存在を撮影することに成功した。

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▲茂った草木によって水面を見ることは困難であった。さきほどの中年アベックが、警戒するようにちらちらと振り返って私に視線を送ってくる。

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▲高い位置から撮影できた沼の水面。

 

通り過ぎ去り二度と戻らない沼の面影を、かすかに捉えることができたように思う。

これからの秋の季節(2013年10月~)、勢いのあった草は枯れ草となって沼の水面をよりはっきり確認することができると思う。ぜひ近くにお立ち寄りの際は、「みぬまの沼」の周辺散歩をおすすめしたい。かつての「見沼」を再現した沼であっても、いつその貴重な景観が失われてしまうか分からない。

人が人になったそのとき、私が私になったそのとき、そのときの記憶を留めるおどろおどろしい沼を探し歩いている。

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沼田小三
沼田小三(ぬまたしょうぞう)。古希に近づく昭和生まれ。日本各地の沼を巡る沼研究の第一人者。新宿区在住。

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