第九回 「山の沼田場」

 

■沼帰りの話

 

沼の囁く声が聞こえると決まって虫の羽音に遮られ、意味をなさないとぎれとぎれの声をつなぎ合わせることしかできないでいるのは、本質の周りをぐるぐる遠巻きに吠えて涎を吹き散らすみすぼらしい老犬のあがきと知っている。

気がつくと口の端から涎が溢れ出て自分とは思えないような顔が鏡の向こうにあり、手足を引きずるように新宿を離れて遠縁の勧めで千葉にある介護施設に入っていた折、旧知の写真家Aから連絡が入った。

わずかな段差にけつまづいて転んだり足元がだいぶおぼつかなくなっていたため、今回はマタギの写真を取り続けているAに写真をお願いすることにして狩り場である信州の山奥に同行させてもらった。

 

■ひょっとこ踊り

Aが言うには山の中に沼らしい水たまりを見つけたのだという。Aは寡黙ではあるが人懐っこさがあり、唇に目が釘付けとなるようなハンサムで信頼のおける男である。

沼を感じて不思議なことに足が軽くなりぼんやりとした頭がすっきりとして涎も出なくなっていた。数日後、迎えに来てくれたAの車に乗り込み件の山へと向かった。

A) 山が内在する熊やマタギの不可視をカメラに撮りたいと思っている。これは山裾まで下りてきた鹿の肉を燻製にしたものだ。(Aから肉の塊を渡された。彼は写真家であり狩猟免許も持って狩りに出ているので獣の臭いがした。)鹿と目が合いじりじりと見つめ合っていた、そして、銃を打つ瞬間に鹿の首がヌラッと伸びるのを見た。引き金を引くと頭に命中し躯に近づいて見ると角がひしゃげた奇形のオス鹿だった。オスのシンボルである角がひしゃげたことで、メスにもてることもなくコンプレックスがあり社会からも孤立して山と人里の境界線をうろついていたのであろう。

私) 奇形…。この肉は堅くて臭くて野性の味がする。鼻を突く匂いから私の親戚のMが語ったことを思い出した。土木の仕事をしている彼が仕事場で作業をしていると、8mほどもある大木が見えない角度から倒れて後頭部を打ち自分は床に倒れて顔面を強打して死にかけたそうだ。幸いにも異変に気がついた母にすぐに発見されたというが、発見が遅れたら死んでいたという。顔はパンパンにはれ上がり、3度吐血して意識のない状態で奇声を発しながら暴れて救助隊の手に負えなかったという。それは、まるでひょっとこ踊りの姿だったという。彼は無事に命をつなぎとめ、後遺症がわずかに残ったもののいまは元気に生活している。

A) 社会を形成するということは差別を生む土壌作りとなり、鹿の社会でも例外ではなかった。山小屋をやっている仲間にひょっとこ好きの老人がいる。彼は犬を引き連れて山に入り、獲物を狩るタイプのマタギである(仕掛けは使わない)。犬の中で出来の悪いのものや老犬は容赦なくつぶすのだ。時には冬眠中の熊のねぐらを突きとめて寝ている熊に奇襲をかけ、素手で取っ組み合いをして懐に忍ばせた短銃をこめかみにぶち込み仕留めるそうだ。山にはいまだに常識やルールの外側で生きる人間が存在する。

私は車のミラーにかかった不自然な塊の揺れるのを見ていた。すると、まるで催眠術にかかったように、こめかみがじんとしてうつろになってきた。

ぼそぼそとしゃべる老人を乗せた車がやがて山に着く。

※Aの狩り場であるため地名や詳細は特別に伏せさせていただくことにする。

 

■俵積み歌

猟銃を担いでさっさっと慣れた足付きで前を歩くAについていき、まずは「焼き場」という場所を目指した。時間は昼を少し過ぎたあたりだったであろうか。

山の中にあるという沼の存在を私は当初いぶかしく思っていた。というのも、山は雨水をろ過して滝のような姿をとり、そのほとんどは湖といった清廉潔白なしらじらしい様相となるからである。

Aは「山には隠された沼が存在し、その沼は人に知られず動物だけが、水を飲んだり身体を休めたりする、糞尿や死骸すら入り混じっている沼地である。山を良く知る自分と限られた者だけがその存在を知っている。」と言うのであったから、動物の死骸だけでなく縄文人や行方不明者をもないまぜに懐に抱き、わけ隔てなく発酵させぶくぶくと泡となり、泡が破裂すると鼻を突くガスやひそひそ声を発生する沼を想像し、自分がまるで少女にでもなったように心がキャアと騒いでいた。

しかし、身体は心に追いつかず息は切れ何度も転んで(転んだことをAに知られたくないので叫び声や助けてもらうことを我慢してしまったのだ)、やがてAの姿を見失い山の中に1人置いていかれてしまった。

どのくらいの時間が経過したのか夕方の気配が近付くと古い民謡のような女の歌声が聞こえてきた。しかし、声の出所が近いのか遠いのか分からない。やがて、まとわりつくような悪意を感じて心臓の鼓動がだんだんとその歌声のボリュウムを上回っていった。

あとで知ったが、姿の見えなくなった私に気が付いてラジオのボリュウムを上げてAが私を探してくれていたのであった。しかし、ラジオから音楽は流れていなかったという。

 

■沼田場

「焼き場」の鍵が閉まっていたため、次にAが案内してくれたのが「沼田場」(ぬたば/Suhle)と呼ばれる場所であった。

沼田場とは、イノシシやシカなどの動物が、体表に付いているダニなどの寄生虫や汚れを落とすために泥を浴びる場所のことで、沼、湖や川の畔、休耕田などを指すという。

私の見た沼田場はおよそ半畳ばかり。動物が遊ぶためにしか思えない泥溜まりであった。

見た目で明らかに深さのないことが分かったことと、窪みが動物に寄り添い過ぎて貫禄がなく意気消沈した。

たとえば、沼田場が10年経過したとするとそれなりの沼になるのであろうが…。おそらく動物たちの気ままで沼田場は移動をすることだろう。流動的なものと考えると沼化して発酵する期待は薄かろうと感じた。そして、動物が嵌り込んで抜け出せない深さ(底なし)は沼田場にはあり得ないことがまずさきに頭にイメージされてしまうのであった。

「沼は動かず同じ場所に存在する」「動植物だけでなく魚が共存する」「底無しの雰囲気」という3つの要素が沼を形作るためには必要なのだと思い知らされるに至る。

日が落ちて帰る時間が近づいてくると、黒いもやもやのようなものが私の頭にやってきて、また自分が誰なのか分からなくなっていく。甲斐甲斐しく私の口もとの涎を吹いてくれたAだったが、そのときなにかの薬を飲まされたようだ。

すると言いなりになって、沼に沈んだ私の口から昇っていく最後の二酸化炭素の泡が、小刻みに揺れながらやがて見えなくなっていくように。沼に身を投げたのは私ではない私なのだろう。

 

沼田小三
沼田小三(ぬまたしょうぞう)。古希に近づく昭和生まれ。日本各地の沼を巡る沼研究の第一人者。新宿区在住。

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