第十八話

 

 

「電話なら出ていいぞ」

 有田が言った。

「いや、大丈夫です」

「どうして出ないんだい。まさか女か、柏木君。オレに聞かれちゃあマズい電話かな」

 いつもの有田なら、撮影中に柏木が電話に出ることなど許すはずもない。柏木は「何で今日に限って、クソ有田が」と思ったが、他にどうすることもできず、通話のボタンを押した。

「やぁ、ゆきさん。今夜、そっちに行くんだが、時間作ってもらえないだろうか」

 すでに汗を噴き出していた柏木の額から、大粒の汗が流れ落ち、その一部が眉を通過して目に入った。

 電話に出てしまったものの、今ここで、女装子のように裏返った声で返事をするわけにはいかない。

 柏木は滲みる目を曲げた右手の人差し指で押さえながら、何も言わずに電話を切った。

「先生」からの電話を無碍に切ってしまった。

「もうこれで、二度と女とセックスするチャンスは巡ってこない」柏木は心の中でそう呟いた。

 有田は、3人目のОLを撮り始めていた。

「キミも、キャバでバイトしてるのかな。目が艶っぽくていいね店に出てるとしたら、ナンバーワンだろう」

 相変わらず調子がいい。

 柏木は、そんな有田の後ろで着信履歴をこっそりと見た。

 後から電話してみようか。「先生」は怒っていないだろうか。

「先生」と会えば、また女とセックスできるかも知れない。

 柏木は、半年前に太田のラブホテルでナースとセックスした時の情景を、明け方の夢を思い出す時のように、断片的に脳裏に浮かべていた。

 まさに夢のようなひと時だった。自分のイチモツが、女のアノ部分に深く埋まり、その中で果ててしまったことが、今でも信じられない。

 女装子になれば、男にモテるから、男の口の中で射精することは簡単なことだった。だが、柏木にとって女とセックスすることは、その何百倍も難しい、不可能に近いことだった。

 そんな時、有田のカメラのファインダーに映っていたОLが、

「私、キャバじゃなくて風俗です」

 と、言った。

「もちろん会社には秘密だよね。だって、一部上場の本社勤務でしょ。やるなぁ、ОLさんは。デリなの?」

 有田の問い掛けに、ОLは、

「吉原です」

 と、答えた。

 吉原が、ソープを意味することや、ソープでは、客が風俗嬢とセックスまですることは、柏木にも分かった。

 金さえ払えば、目の前のОLとセックスできるのか。26歳だというそのОLは、森カンナに似ていた。柏木が半年前にセックスしたナースも山本美月に似た美女だったが、目の前のОLも、相当にいい女だ。

 だが、柏木に、そのОLとセックスするためにソープに行く度胸など、あるはずがなかった。

「マジなの?じゃあ、オレ、指名で行くよ。次、いつ出勤なの?」

 有田は、何の迷いもなく、ОLにそう言い放った。

「今夜です」

「じゃあ、今夜行くから。決まりね。絶対行くから、生でヤラせて」

「いいですよ。ピル飲んでるから」

 柏木が半年前の思い出に浸っている間に、有田とОLは、事実上のセックスをする約束をしてしまっていた。

 柏木は、「有田、死ね」と、心の中で叫ぶことしかできなかった。

「柏木君も一緒に行くか。なんならソープ奢ってやってもいいぞ」

 有田は、カメラのシャッターを押しながら柏木の方を振り返りもせずにそう言った。

「いや、いいです」と断ることを前提に、有田がからかっていることは、柏木には分かっていた。

 

 上野駅西口のペデストリアルデッキを吹き抜ける夜の風には、もう夏の匂いは残っていなかった。

 街行く人の中には、まだ半袖姿の人もちらほらいたが、鼻腔の奥に、金木犀の匂いすら感じた。

 そう言えば、ちょうど1年前、池袋のミストで有田のイチモツを咥えた夜も金木犀の匂いが漂っていたことを柏木は思い出した。

 今頃、有田は、ソープに行って、あのОLと繋がり合っているのだろうか。

 その夜、柏木はミストへ行こうと思っていたが、女装子になって、男とイチモツを咥えたり咥えられたりすることが情けなく感じた。

 やっぱり「先生」に電話してみよう。

 そう心の中で思いながらも、地下鉄銀座線に行き先も決めずに乗った柏木は、日本橋でも新橋でも降りずに、赤坂見附で、ホームの向かいに停まっていた赤い車輌に乗り換えた。

 柏木は丸の内線の電車を、新宿三丁目で降りた。

 足は歌舞伎町に向かっていた。

 花園神社の脇からゴールデン街を抜け、新宿区役所の裏手に拡がる猥雑なエリアをフラフラと歩いた。

 ようやく足を止めたのは、『グランディール』というキャバクラの前だった。

 昼間の撮影で2人目のモデルだったОLがアルバイトをしていると言っていた店だ。

 三日後に皆既月食を迎えることになっている月がビルとビルの隙間から柏木の頬を照らしていたが、夜の看板に目が眩んでいた柏木は、それに気付くことはなかった。

 

 

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志井愛英
小説家。昭和41年生まれ。同性愛者、風俗嬢、少数民族、異端芸術家など、マイノリティを題材にした作品が多い。一部の機関誌のみでしか連載しておらず、広く一般に向けた作品は本篇が初。

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